予備試験とか

30歳までに弁護士になって岐阜帰還することを目指しています。地方自治、法と言語に興味があります。

H28予備試験 憲法

良心の自由

憲法19条が良心の自由として保障するのは、人の人格の核心にかかわる精神活動について公権力から介入されないことであると解すべきである。あるカップルが法律婚を選択するかしないかは当人の生き方の根幹に関わる決定でありその人の人格の核心に深くかかわる。それと同様に、法律婚の選択に肯定的な見解をもつか否かは人の人格の核心にかかわる事柄だといえる。

補助金給付の条件として本件宣誓書の提出を求めることは、婚姻のなかでも法律婚を選択することをことさら肯定するという人格の核心にかかわる倫理的判断の表明を、Xの名義で行うことを、公権力によってXに要求するものであって、このようなA市の行為は良心の自由を侵害する違憲なものである。

あるいは端的に、本件宣誓書の提出を給付条件とするという手段をとったことは、良心の自由という不可譲な権利の放棄を給付条件とすることで良心の自由を放棄することを強制するのと同じ効果があり、違憲だと主張することも考えられる。

これに反論して、補助金給付の条件として本件宣誓書を求めたに過ぎず、Xは宣誓書を提出しないという選択をすることができるのだから、なんらXの自由を侵害するものではないとか、Xは法人だから人格的利益が認められず、良心の自由を享有しないと主張することが考えられる。

消極的表現の自由

仮に、本件宣誓書の提出を求めることが、Xの良心の自由を侵害しないとしても、憲法21条1項が保障する表現の自由を侵害しないかが問題となる。

宣誓書の提出は、例えば行政上の報告義務を課せられた場合と同様に、消極的表現の自由を侵害しないようにも考えられる。しかし、本件宣誓書を提出したことが情報公開されると、宣誓書の文言がXの名義の言論として受けとられ、思想の自由市場を歪めるから、単なる事実の有無の報告義務と同視することはできず、憲法21条1項との関係が問題となる。

市の事業の実施との関係では、宣誓書の提出を補助の条件とすることに代えて、補助の負担として法律婚による成婚数を上げる努力義務を課すことで足りるから、本件宣誓書の提出の必要性は認められない。

よって、Xの表現の自由を侵害し、違憲である。

平等権

もし、Xの主張が認められないとすると、A市において事実婚を望む者は、法律婚を望めば受けられるはずの、NPO法人等を通したA市による結婚援助を受けられないこととなる。

届出により結婚関係にあることの確証が必要な合理的な理由がある場合を除いて*1法律婚事実婚を区別して取扱うことは、憲法14条が保障する平等権を侵害し違憲である。

市としては、1.法律婚の方が安定して子どもを産み育てる環境をつくりやすく、人口増加という成果に結びつきやすいことと、2.成婚数により事業の効果を測定するために、法律婚に対象を限定して事業を実施する必要があることという合理的な理由があることとを主張することが考えられる。しかし、1.は、実際に市の主張する傾向が仮に認められるとしても、結婚した後に子どもをつくるか否かの決定は、憲法14条のもとで重視されるべき価値である個人の尊厳(憲法13条)と不可分な事柄であって、区別的取扱いを正当化する合理的な理由にはできない。2.は、同居の有無など、他の指標を併せて用いることで、効果測定をすることができるから、合理的な理由とは認められない。

本件事業がA市において事実婚を望む者らの平等権を侵害するとして、Xに主張適格は認められるか。A市において事実婚を望み、Xが補助を受けたならば本件事業を利用した者らは、潜在的にしか存在せず、独立の訴訟で自己の権利侵害を主張することは実際上不可能である*2。よって、Xが平等権侵害を主張できる。

 

 

コメント

給付の違憲性を主張する問題ということで、まっさきに平等原則が思い浮かびましたが、事実婚の当事者ではない法人Xに平等権侵害の主張適格があるのかはよく分かりません。出題趣旨には平等の問題とは書いてなかったので、無理筋なのでしょうか。

論点漏れが嫌なので違憲な条件の法理っぽいことも書いておきました。

結社の活動の自由も論じるべきみたいですが、結社の活動の自由についてよく知らない。。。

*1:中川善之助「婚姻の儀式(五)」法協44巻6号(1926)p.1117の準婚理論によれば「届出の如き確証を絶対必要とする如き種類の効果を除いて」内縁にも婚姻に関する規定を準用すべきという。

*2:芦部(初出1962)「憲法訴訟における当事者適格」『憲法訴訟の理論』p.112,3 もし第三者憲法上の権利に訴訟の結果不利益が及ぶことを主張する場合に類する問題として扱うのが正しいとすれば、最大の論点は、おそらく第三者が独立の訴訟で自己の権利侵害を主張することが実際上可能かどうか、ということであろう。